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Channel: 高山清洲・世界平和 人類みんな兄弟
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平成という災害の時代がおわる!!

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平成という災害の時代がおわる!!

 明治、大正、昭和は戦乱の時代であり、平成に入ると災害の時代と成り、そして令和へと入りますが、いったい何が待ち構えているのでしょうか?

 「戦争をしてでも、平和を勝ち取れ!!」

という時代であると言いますが・・・。

 いずれにしましても天皇陛下退位して、皇太子が新天皇として「血統」と「霊統」を継承し令和天皇として国民の象徴として鎮座なさいます。

 

「国民に心から感謝」と天皇陛下 皇居で退位礼、最後のお言葉

共同通信社           「退位礼正殿の儀」で、お言葉を述べられる天皇陛下と皇太子さま=30日午後5時8分、宮殿・松の間(代表撮影)© KYODONEWS  「退位礼正殿の儀」で、お言葉を述べられる天皇陛下と皇太子さま=30日午後5時8分、宮殿・松の間(代表撮影)

 天皇陛下は30日夕、皇居・宮殿「松の間」で、代替わりの重要儀式「退位礼正殿の儀」に臨まれた。

 85歳の陛下は在位中最後のお言葉で「支えてくれた国民に、心から感謝します」と述べた。

 象徴のあるべき姿を追求し続けた陛下はこの日限りで退位し、5月1日に59歳の皇太子さまが新天皇に即位する。

 30年余りの「平成」が幕を閉じ「令和」に改元される。

 天皇の退位は、江戸時代の光格天皇以来202年ぶりで、憲政史上初めて。

 今回は2017年6月に成立した、陛下一代限りの退位を認める皇室典範特例法に基づき行われることになった。

 皇族や三権の長らが参列。

 安倍晋三首相は「天皇陛下は皇后さまとご一緒に、国民に寄り添い、明日への勇気と希望を与えてくださった」と国民代表としてあいさつした。

「退位礼正殿の儀」に臨まれる天皇、皇后両陛下と皇太子さま=30日午後5時1分、宮殿・松の間(代表撮影)© KYODONEWS  「退位礼正殿の儀」に臨まれる天皇、皇后両陛下と皇太子さま=30日午後5時1分、宮殿・松の間(代表撮影)  © KYODONEWS  天皇、皇后両陛下(宮内庁提供)   

【象徴 次代へ】両陛下の願い(上)戦没者慰霊 苦労に共感、遺族「苦労報われた」

株式会社 産経デジタル

  産経新聞 提供 先の大戦の生還兵、倉田洋二さん(中央奥)らに語りかけられる天皇、皇后両陛下=2015(平成27)年4月、パラオ・ペリリュー島(松本健吾撮影)

 天皇陛下のご即位30年を祝い、2月26日に催された宮中茶会。

 先の大戦の激戦地だったパラオ・アンガウル島の生還兵だった倉田洋二さん(92)=沖縄県宮古島市=を前に、陛下は「パラオは海がきれいですが、海底には戦時中のいろいろなものが残され、海中に溶け出すものがあって困っていますね」と語りかけられた。

 

© 産経新聞 提供

【象徴 次代へ】両陛下の願い(上)戦没者慰霊 苦労に共感、遺族「苦労報われた」

 倉田さんとは、戦後70年の節目を迎えた2015(平成27)年の4月、戦没者慰霊で訪れた同国ペリリュー島以来のご再会。

 陛下は当時も、沈没船や不発弾が海洋汚染につながっていることを憂慮されていた。

 陛下のご訪問後に戦没者の遺骨収集が進み、300柱が新たに見つかったことを倉田さんが陛下に伝えると、祝宴が終盤に差し掛かった頃、倉田さんのところに皇后さまが駆けつけ、かがむように耳元に顔を寄せてささやかれた。

 「名簿を送ってくだされば、必ず拝見します」。

 皇后さまは、倉田さんが「陛下のお声を聞かせたい」との思いでペリリュー島に戦友の戦没者名簿を持参していたことを覚えていて、気に留められていたのだ。

 「両陛下に最後にもう一度お礼を言うために出かけたが、思わぬ気遣いをいただいた」(倉田さん)。

 名簿とともに、島に再建された慰霊碑の写真が両陛下のお手元に届いたのは3月11日。

 くしくも、両陛下がパラオの大統領夫妻を皇居・御所に招き、昼食をともにされたのと同じ日だった。倉田さんには側近を通じ、感謝とともに、「末永くご健康でお過ごしください」とのお言葉が伝えられた。

    ×××

 4年前のペリリュー島には元日本遺族会理事の上村祥子(かみむら・よしこ)さん(94)=鹿児島市=の姿もあった。

 陸軍大尉だった夫は中国戦線で負傷し、帰国後の昭和26年に死亡。

 上村さんも終戦間際の20年6月、嫁ぎ先から鹿児島市の実家に戻っていて米軍の空襲に遭い、九死に一生を得た。

 夫の死後は田畑を耕し、地元の役場に勤めながら息子2人を育て上げた。

 鹿児島県遺族会では戦没者未亡人をまとめる婦人部長を15年以上務めた。

 だが、戦没者未亡人らの高齢化を受けて婦人部はなくなることになり、戦後60年だった平成17年12月、上村さんら47都道府県の代表者が集まり、都内で「新たなる出発の集い」と称した最後の会合が開かれた。

 当時の未亡人の平均年齢は87歳。

 事情を知って足を運んだ両陛下は、地域ごとに出席者が座るテーブルを回り、一人一人に声をかけられた。

 当時随行した側近は「未亡人の方々は両陛下にとって親世代。戦後、女手一つで子育てをした苦労にとりわけ思いを寄せられてきた」とおもんぱかる。

 「ご主人はどこで亡くなりましたか」。

 上村さんは夫が戦地で犠牲にならなかったことに引け目を感じていたが、皇后さまから優しいまなざしで尋ねられ、正直に打ち明けた。

 陛下の譲位を前にこう振り返る。

 「戦後の生活はつらかったけど、昭和天皇や陛下を恨む気持ちはない。慰霊に尽くされてきたことはありがたく、苦労が報われた」

    ×××

 戦後、疎開先から焼け野原と化した東京に戻った陛下は昭和24年4月、原爆投下から3年半余りが過ぎた広島を訪れられた。

 当時15歳。学習院中等科から高等科への進学前の春休みを利用されての旅行だった。

 「あの惨劇に二度と人類を陥れぬよう私たちは固い決意をもって平和のために進まねばならない」

 「私も責任を自覚して勉強と修養に励みます」

 陛下は地元の小中高生に向かい、こうあいさつをされた。公の場での初のお言葉とみられる。

 陛下の同級生だった栄木(さかき)和男氏(85)は「将来の天皇の教育で国内を見て回る目的だったようだが、即位後の『慰霊の旅』の原点といえるかもしれない」と話す。

 峯達彦さん(85)=埼玉県宮代町=は平成27年4月、両陛下のパラオへの慰霊の旅を目にし、郵便局長だった父と幼い弟が犠牲になった同国のアンガウル島への旅を決意した。

 母から生前、「いつかは行ってほしい」と頼まれていたが、踏ん切りがつかないでいた。

 両陛下のご訪問から1カ月後、70年ぶりに降り立った島はすっかり変わり果てていたが、峯さんの訪問を知った地元の人たちが父をモデルにした銅像を建ててくれていたという。

 「両陛下のおかげで母の遺言を果たせてよかった。陛下は昭和天皇の願いを受け継ぎ、慰霊に取り組まれてきたと思う。

 その思いは遺族である私たちも共感できる」。峯さんは、両陛下への感謝を口にした。

     ◇

 天皇陛下は譲位に伴い、皇后さまとともに尽くした「象徴の務め」に終止符を打ち、次代に託される。

 戦没者慰霊、被災地見舞い、福祉施設訪問に焦点を当て、その軌跡を総括する。

以上

   新しい時代にこそ真の自由を勝ち取らなくてはなりません!!

 安倍晋三のアメリカ訪問のざまを見よ!!

 ホワイトハウスの赤いジュータンの上を歩かせてもらえなかった!!

 世界中が、この日本の総理の腰抜けぶりを笑っているというのに、日本のマスコミは一切報道しない!! 

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