この真実から目を背けてはならない!
国民は、連帯せよ!
福島県から避難した母親からの報告
私はこれまでずっと福島県で生活し、東日本大震災から原発事故以降も福島県に在住でした。今夏、子どもと私の体調不良の為、県外への避難移住を決めました。その経緯と移住後の生活についてお話させていただきます。
―甲状腺検査を受けて―
〈3.11〉の時、ライフラインは断絶され、毎日の食料調達には、ふだんは車で行く店まで家族で歩いて行き、何時間も並んで手に入れていました。そのような中で原発事故の報道があり、私と子どもは異臭と息苦しさで呼吸をするのがとてもつらかったのを今でも覚えています。
それでも連日のようにテレビから流れて来る国や専門家による「心配はない」「直ちに体に与える影響はない」等の言葉を、不安はあったものの真に受けて、福島県産の野菜を食べ、水道水を飲んでいました。
子どもは学校での外遊びを制限されるようになり、外で遊ぶことが出来ずにつらい毎日を送っていましたが、日々の生活に追われ仕事も忙しかった為に、放射能や被曝に関してはあまり調べることもなく月日が流れました。そして、事故から1年後に福島健康管理調査の甲状腺エコー検査がありました。
その結果は、検査対象だった子ども2人ともA2、「嚢胞(のうほう)あり」の判定でした。その結果にとてもショックでした。ところが、甲状腺検査に関する画像も無ければ、具体的にいま体がどういう状態なのかもわからない。
ただの(結果を伝える)紙切れだけ。しかも、2年後の検査まで再検査の必要はないというもので、不信感でいっぱいになりました。
その時、避難すること(注:自主避難)も考えましたが、何の補償もなく母子家庭で実家にいた私は、実家を出て子どもを養っていく勇気もお金も無く、いったんは断念しました。
その後、さらなる甲状腺の検査については個人で受けようとも考えましたが、地元で経過について診てくれる病院は無いと聞いていたので、不安を抱えたまま、ただ時間だけが過ぎていきました。
12月4日の会見では、原発作業員の防護服に関する“実演”もあった。現在、福島原発では、現場作業員の“軽装”化が問題になっている。
―保険会社からの通告―
今年に入って「これから先、何があるかわからない」と、子どもを生命保険に加入させようとしました。すると、甲状腺エコーの検査結果を保険会社に伝えると、後日、「ガンに関する特約は一切付加出来ない」との結果が届いたのです。
再診査をして何とか保険に加入することは出来たものの、保険会社がそのような対応をするということは、それだけ子どもたちへの健康被害が現実のものになる可能性があるからだろうと思い、悩み苦しみました。
また、それがきっかけとなって、私自身、放射能や被曝に関して情報を積極的に集めるようになりました。
たとえば、甲状腺エコー検査をしてくれる病院を見つけて、県民健康管理調査の検査対象外だった娘と私も検査を受けたところ、全員に嚢胞が見つかり、それ以後、半年ごとの検査を勧められました。
福島県や市が実施しているホールボディカウンターは信用出来ずNPOでの検査を受けました。昨年(2012年)秋には全員下限値以下だったにもかかわらず、半年後の検査では子供2人からはセシウム137が検出されました。
私は、その検査結果にどうしていいのかわからず、毎日隠れて泣いていました。そして、その頃から、私にも原因不明の空咳(からせき)が出るようになり、病院へ行くと同じ症状の人がとても増えていることを聞きました。
私は保養などで県外に出ると症状が収まっていたので「放射能の影響ではないか」を尋ねると、「それに関する報告が来ていないのでわからない」との返事でした。
体にあらわれる…異変!
小学生の息子は足裏の骨の痛みを訴えるようになりました。
まわりの人に聞いても、年齢を問わずおとなでも子どもでも足裏の骨の痛みを訴えている人はかなり多かったです。
そのような状態にあって、避難先ではたして生活が出来るか、子どもが学校にうまく慣れるだろうかといった不安も大きく、まだ避難する決断が出来ずにいました。
けれども、「そんなことより命の方が大切でしょう!」と言われ避難を決意し、移住先を探し始めました。
行政機関を通しての避難受け入れは2012年の年末でほとんど打ち切りになっていたので、それ以外の受け入れ団体を探して、東京以西の避難地を決めることが出来ました。
実際に避難するまでの間、私たち家族はみるみるうちに体調が悪くなり、私は仕事の関係で高線量地区を数ヶ月も歩いていたため、空咳がひどくなり、夜中には窒息しそうになったことが何度かありました。
そして…足裏の骨の痛みから始まり、腕や脚の骨まで痛むようになり、空気に触れる腕や脚はチクチクと針を刺したような痛痒さを感じ、1年以上続いていた喉の詰まりと痰がからんでいる状態は次第に悪化していきました。
また、突然の体のだるさで車の中で動けなくなったこともあります。腕の骨の痛みも、そのあまりの痛さで戸の開閉も出来ない程でした。
とても恐ろしくなり、その高線量の地区を歩くのを止めると、間もなく骨の痛みは無くなりました。
小学生の息子は、朝起きると吐き気、頭痛が続き、病院で検査すると血尿も出ていて、アレルギーもおよそ3倍に種類が増えており、体調不良の原因はアレルギーからかもしれないという診断でした。
けれども、処方された薬を飲んでも、吐き気、頭痛は良くならず、下痢をすることもあり、私も同じく吐き気、頭痛、下痢が続くようになりました。
ほかの病院で受診しても、心因性によるものだと言われる等、結局、原因はよくわからずじまいです。
当時、息子の血圧は82/50と低下していました。体調は次第に悪くなり、目の下の黒い隈(くま)がだんだんと広がっていき、避難までの3週間はほとんど学校に行けない状態でした。
会見では、映画監督の鎌仲ひとみさん、講談師の神田香織さんも、それぞれが関わる「被曝」の問題について意見を述べた。
―「そんなことを気にしていたら…」校長の心ない言葉―
家の外での空間線量は0.8マイクロシーベルト/h、敷地内は1.5~2マイクロシーベルト/h、家の中で測ってみると0.3~0.5マイクロシーベルト/hぐらいあり、その中で私たちは生活をしていたのです(注)
(注)0.6マイクロシーベルト/hを超える場所は放射線管理区域に指定されなければならないような場所である。当然、本来そういう場所では飲食はもちろん生活はできない。
子どもの甲状腺への影響や高線量の通学路を歩かせることへの不安を校長先生に相談したこともありましたが、「年間5ミリシーベルトの被曝でも大丈夫だと思っています。そんなことを気にしていたらどこにも住めない、気にする方がかえって病気になる」等々…信じられない答えが返って来ました。
それで、学校周辺の放射線量を調べたところ、学校の敷地内には1.5マイクロシーベルト/h前後の高い放射線量の場所があちこちにありました。けれども、当の学校はそういう高い線量の場所があることを発表はしていません。
その後、2年ぶりにプールが再開となりました。ところが、プールに入れない児童には「病院の診断書を出すように」と言われ、今までになかったそうした承諾書の厳しい内容に言葉が出ませんでした。
娘はもともとあった原因不明の皮膚疾患が悪化し、それまでにないひどさでした。息子は自分の体調不良の異常さを感じて「今までこんなことなかったのに、どうして……」と布団をかぶって泣いてしまうこともありました。
―避難後の体の変化―
県外に避難してから――最初の1週間は、私も子どもも、吐き気、頭痛、下痢、体のだるさ、喉の詰まり、そして痰(たん)がとてもひどくつらかったのですが、そのうち2日に一度、3日に一度…と、症状の間隔が延びていき、息子の目の下の隈(くま)もだんだんと薄くなっていくのがわかりました。
その後まもなく、東京の病院まで子どもと甲状腺検査に行き、後日その結果を聞いてたいへん驚きました。家族全員が、福島での検査結果とまったく違って(数値が軽減して)いたのです。
息子の血尿は続いており、血液検査の結果も気になって避難先の専門病院で診てもらうと、「自律神経が悪い」との診断でした。
しかし息子の症状や自分の体調不良をどう考えても、(よく原因不明のときの診断名に使われる「自律神経…」という)診断結果は腑に落ちず病院不信になり、病院に行くことをやめました。
県外に移住して約1ヶ月が過ぎると、子どもも私もすっかり体調がよくなり、息子は元気に学校に通えるようになりました。「体調不良」…ぐらいはたまにあるものの、福島で生活していた時に起きていた異常な症状はまったく無くなりました。
自分たちの体調が改善されて初めて、私たちはとても恐ろしい所に住んでいたのだと、改めて放射能の怖さを思い知った次第です。
「ふくしま集団疎開」の会では、有楽町でのチラシ配布活動など、放射能汚染地域からの子どもたちの避難を求める活動を続けており、メンバーも随時募集している。
協力のできる人は、同会まで。
写真は11月16日、銀座・数寄屋橋交差点でチラシを配る女性。チラシにある【59人】の数字が事態の深刻さを物語っている。
―国による1日も早い避難政策を!―
避難後、2度ほど福島県に帰省しましたが、やはりそのあとに体調が悪くなりました。そして…いまも福島に残っている人に、それまでの私たちと同じ症状が出て、私たちと同じように苦しんでいる人が増えています。
(そうした症状が高じて)亡くなる人も出て来ています。白血病になった子、鼻血が頻繁(ひんぱん)に出るようになった子、甲状腺がんも多くの子どもに発見されています。
特に、甲状腺がんのお子さんは、本人だけではなく、その母親も(精神的に)たいへん苦しんでいます。
東京の放射能汚染はチェルノブイリ時の1000倍もある!
本当は東京にもプルトニウム飛散していた!(経産省)
・事故当初、 「プルトニウムは重い物質なので遠くには飛ばない」 と国や東電は説明していたのだが全くの嘘だった!
・原発事故に関して、 国、東電、御用学者は、グルだから捜査のメスが入らない!
・経産省は8月26日 大気中への放射性物質の核種などをホームページ上で発表したが、こっそりと、できるだけ国民にバレないように公表しており マスコミもこれを報道していない。
・福島原発事故時に東京の空気中の放射能濃度を調査した結果、 1986年のチェルノブイリ原子力発電所事故時に 東京に飛んできた放射能の何百倍、何千倍も強い放射能が福島から東京に到達していたが、東電や政府はパニックをおそれており、自分たちの家族だけ東京から逃がした!
・その量は、チェルノブイリ事故のときに東京に飛んできた放射能と比較すると、約1000倍くらいの濃度でした。
・それを東京 の皆さんは呼吸で吸い込んでいた。
・それを内部被曝に換算すると、1時間で20マイクロシーベ ル トくらいになってしまうほどの被曝量であった。
・福島原発事故がこれほど深刻な状態であることを国民は知らない!
・福島で見られる健康被害について、「せめて子どもだけは避難させて欲しい」という声を聞きますが、子どもだけではなく、親も元気で健康でなければ、子どもを育てることは出来ません。1日も早く、福島の高線量の場所から大人も子ども避難させて欲しい。
・実際に避難をすでにしている人たちも、多くは「もっと早く避難していれば……被曝の程度は少なくて済んだのに」と後悔の念や「子どもを守り切ることが出来なかった…」という思いに駆られています。
・早く国による避難政策を実行に移し、国や東電は真実を明らかにし、すべきことをしっかりと責任を持ってして欲しい!
・国や東電の責任者は、自分たちが責任をきちんと果たさないことで、原発事故による心の傷が癒えないままに、さらに被曝という2重、3重の苦しみを背負わされ続けるということを、もっと、もっと…知るべきです。
東京はすでにチェルノブイリ級の放射能汚染のもとにある。放射能汚染とオリンピック。兵頭に訊こう
東京の放射能汚染はチェルノブイリ時の1000倍 【本当は東京にもプルトニウム飛散(経産省)】
東京の人たちも「立派な被曝者」96歳 肥田舜太郎医師『さようなら原発1000万人アクション』
『原発は金だ』放射能汚染で生まれる子供達が【障害者でかまわない】原発ムラの基本理念!!-
生活に困った心無い者たちが、「ここなら安全です!」「ここは災害に会いません!」と言葉巧みに善良な国民を誘いますが要注意です!
大半の者たちが、定職を持たない生活困窮者ばかりです!
調査の結果、日本国で、特定の地下以外で安全に地域はありません!
不安な方には、この者たちの正体を教えます!
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